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京都一"自由な"高校で感じた、『不自由』の正体。

校則の自由度ランキング京都1位の同志社高校で、3年間感じ続けた「見えない不自由」の正体。

「みんなの高校情報」というサイトで、僕の母校、同志社高校は「校則の自由度ランキング」で京都府1位(※2025年現在)らしい。

たしかに、服装も頭髪も自由。校則でガチガチに縛られるような息苦しさはなかった。客観的に見れば、これ以上ないほど「自由な学校」だったのだろう。

しかし、僕が3年間抱え続けたのは、その「自由」という言葉とは裏腹の、どうしようもない「苛立ち」だった。

生徒手帳に書かれているルールが自由でも、僕たちの「主体性」や「変えようとする意志」が認められるかは、全く別の話だ。

「自由」とは、いったい誰のためのものなのか。"自由な学校"で僕が直面した、生徒の主体性が尊重されない校風。その中で感じた「モヤモヤ」の正体について、ここに書き記したい。

生徒の「問い」を笑う学校

僕が感じた「見えない不自由」の正体を、強く意識した出来事がある。生徒会長選挙に立候補した時のことだ。

僕の学校には、なぜか「修学旅行」がなかった。内部進学がメインの学校で、生徒たちは皆「なんで無いんだろう」と不満や疑問を持っていた(僕も当然、行きたかった)。

先生たちに理由を聞いても、誰もまともに取り合ってくれない。ただ「20年以上前に問題があって、なくなったらしい」という噂だけが流れていた。

生徒の誰もが疑問に思っているのに、誰も答えを知らない。まず、その状況がおかしいと思った。

そこで僕は、「修学旅行を実施しない(できない)理由を、全校生徒に説明するよう学校側に求める」という公約を掲げた。これは「修学旅行を復活させろ」という過激な要求ではない。「説明してほしい」という、ごく当たり前の「問い」のつもりだった。

しかし、公約をチェックした先生から返ってきたのは、耳を疑うような言葉だった。

「出来もしないことを言わないで」

僕は頭が真っ白になった。"出来ない"とは、どういう意味だ?説明することすら"出来ない"のか?そして、なぜ生徒の公約を先生がジャッジするんだ?

理解し難かったのは、学校側が「主体性」や「自由」を謳っているのに、生徒の「問い」そのものを封じ込めようとする、その姿勢だった。

苛立ちは、それだけでは終わらない。「電子決済(学食など)の導入」や「学校支給iPadのAirDrop制限解除」といった、学校生活を少しでも良くするための公約も掲げた。

すると、他の先生たちからは「変なことするなよ」と、まるで冗談のように笑われた。

本気で学校を良くしようと考えている生徒の意志を、なぜ大人が笑うんだ?

その時、僕は悟ってしまった。この学校で許されている「自由」とは、学校側が敷いたレールの上で、「迷惑をかけずに」遊ぶ自由だけなんだ、と。

僕らの「主体性」は、彼らの裁量(さじ加減)の中にしかなかった。それが、僕が感じた「不自由」の第一波だった。

僕らは「主体」ではなく「管理対象」だった

その「不自由」の感覚は、学校生活の別の場面でも、僕の(ささやかな)主体性を試すかのように現れた。文化祭での出来事だ。

僕たちのクラスは劇をやることになり、クライマックスで観客にスマホのライトを点灯してもらう、感動的な演出を企画した。(生徒会長選挙のような大袈裟な話ではない。クラスのみんなで考えた、ささやかだけど、絶対に盛り上がるはずの企画だった。)

僕たちは、責任者の先生に企画を説明し、許可を求めて直談判した。しかし、先生の答えは、またしても「ノー」だった。

その理由を聞いて、僕は愕然とした。

「生徒たちが(劇と関係ないことで)スマホを触る可能性を与えるのは良くない」

......またか、と思った。耳を疑うと同時に、強い苛立ちがこみ上げてきた。僕たちはもう高校生だ。

なぜ、学校は「スマホを持たせたら、どうせろくなことをしない」と、生徒のことを頭ごなしに信用しないんだろうか。

「主体性を重んじる」と普段から口にしている学校が、生徒の良識やモラルを信じず、最初から「問題を起こす可能性」というリスク管理だけで物事を判断している。

結局、僕たちの必死の説得も虚しく、その演出が許可されることはなかった。

生徒会長選挙で感じた「どうせ僕らの意見は通らない」というモヤモヤが、確信に変わった瞬間だった。

僕らは「生徒」であって、「主体」ではなかった。学校が欲しいのは、ルールの中で大人しくしている「良い生徒」であって、自分たちで何かを生み出そうとする「主体的な生徒」ではなかったんだ、と。

この苛立ちは、どこにぶつければいいのかも分からなかった。

僕が本当に欲しかった「自由」

「京都一自由な学校」で僕が感じた『不自由』。

このモヤモヤの正体は、結局のところ、「学校は生徒のことを一切信用していない」という事実、そして「生徒の主体性を認めない」という学校側の姿勢そのものだったんだと思う。

表向きは「自由」で、ある程度の偏差値を持つ私学ですらこの有様(ありさま)なのだから、他の多くの学校がどれほど生徒を管理下に置いているのか、想像するだけで息苦しくなる。

僕は、学校の運営はもっと本格的に生徒に委ねてしまった方がいい、と本気で思う。

なぜなら、「学ぶ環境」に対して一番の当事者であり、一番解像度が高いのは、他の誰でもない僕たち生徒自身だからだ。

もしかしたら、生徒に任せると失敗するかもしれない。問題が起きるかもしれない。でも、学校側が与えるべきだったのは、校則のゆるさという「表面的な自由」ではなく、失敗する権利も含めた「本当の自由(=裁量権)」ではなかっただろうか。

少し話が大きくなるかもしれないけれど、僕は、この「どうせ自分たちの意見は通らない」という学校生活での無力感が、社会や政治への無関心に繋がっている気がしてならない。

学校という小さな社会の中で、「主体性」を笑われ、「どうせ変わらない」という諦めを刷り込まれた人間が、社会に出た途端に「主権者意識を持て」と言われても、戸惑うのは当たり前だ。

僕は、未来を担う責任感のある若者を育てたいと本気で思うなら、まず大人が生徒を「信用」し、その「主体性」を重んじる教育現場を作ることから始めるべきだと、僕自身の体験から強く感じている。

僕が求めていたのは、頭髪や服装の自由ではなく、「一人の主体として扱われる」という、当たり前の自由だった。

この記事が、かつての僕と同じように、学校という「見えない不自由」の中でモヤモヤを抱えている誰かに届けば、これほど嬉しいことはない。